第三の新人と呼ばれた作家、吉行淳之介のエッセイ(吉行淳之介エッセイ・コレクション ちくま文庫 2004年)には、亭主が代書屋をしていて、その女房の元芸者が試験場近くで代書の客引きをしている、と実際に吉行が体験したことが書かれていますね。
この噺の代書屋はそんな乙な人ではなくて、頑固といいますか「儲かった日も代書屋の同じ顔」という、この噺のマクラ通りの人物が登場します。
代書屋にやってくる客が入れ替わるロングバージョンと、客がひとりのショートバージョンがあります。上方ネタですが東京でも同じ「代書屋」という演題です。以前の上方は代書と屋が付きませんでしたが、現在は代書屋とすることが多いようです。
男性客が履歴書の代書を依頼するのですが、その男の職業が上方では「ガタロ」となっています。上方の噺家は例外なくこの「ガタロ」と言っております。
これは、
一方、東京の噺家はこの「ガタロ」は用いずに、「ヨナギ屋」や「ヨナゲ屋」と言っています。立川談志や柳家権太楼は「ヨナギ屋」ですが、柳家喜多八などは「ヨナゲ屋」を用いてます。正しいのは「ヨナゲ屋」の方です。辞書にも載っております。
よなげや【淘げ屋】
川底の土をざるなどですくい、その中から金属などを拾い上げる人。
(学研国語大辞典より)
このヨナゲ屋という職業ですが、東京では古く江戸の時代からありました。火事早い江戸で火事場に行き、焼け跡から熊手で灰を掘って集め、それを目の粗い
時代が進んで段々と江戸の火事が少なくなりますと、彼ら掘り屋(ヨナゲ屋)の主戦場は上野三枚橋や吉原のお歯黒ドブに変わりました。ドブの底から泥を掬って笊に入れ、金目の物を選って投げる。この選って投げるからヨナゲ屋(淘げ屋)と呼ばれるようになりました。
昭和8年に出版された、工藤英一著「浮浪者を語る」(大同館書店 1933年)にその職業の凄まじさが詳しく書かれております。
大正初期に万年町に住む三十三歳のヨナゲ屋は、瓶洗いをしている妻の収入と合わせて、ひと月に20円の実入りがあり、またヨナゲ師として成功した者はヨナゲ舟といわれる、舟を買って、市中の川底をさらうようになります。
これが約二十年後の昭和八(1933)年になりますと、塵芥は一括して洲崎沖の埋立地に運ばれることになってしまったので、ヨナゲも十銭の渡し船に乗って埋立地まで出張することになります。焼却の真最中である塵芥の山に接近し、すさまじい悪臭と焦熱地獄のなかで熊手を振るい、金目のものを選り投げます。鉄一貫目(3.75キロ)4銭の相場であった時代の話です。
熊手で掻き回すたびに灰神楽が立ちます。埋立地特有の親指大の蠅が、猛然とヨナゲ屋めがけて襲いかかります。腕を一撫でしただけでも、たくさんの蠅を掴むことができます。へたに呼吸でもすれば、何百匹もの蠅を咽喉の奥に吸い込んでしまいそうなので、必死に歯を食いしばります。その中で、暑さのためにノドが乾くのは如何ともし難く、ならばどうするか? 引用させていただきます。
(引用ここから)
ブスブス燃えしきっている焔の下を掻潜って、渚伝いにまだ燃えない個所へ渡って行き、発酵した塵芥山を引っ掻き漁ると、きっとそこから、蜜柑や林檎のドロドロに腐敗したのが、ゴミをかぶって出て来る。それをいきなり、ガブリとかぶりついて頬張っているのだが、その味たるや甘露以上であるということだ。
(中略)
でも、彼らにいわせると「山の果実食えねえ様では、一人前のヨナゲになれるかえ。これでも咽喉がカスカスに乾からびて、声が胸の底に詰っているかと思える程渇いた時、山の果実――殊に蜜柑と来ちゃ、こたえられねえや――をむりっと噛って見な、何とも云えぬ味がするからよ、街でどんな甘え菓子を食ったって、この味にはかなわねえや」と云っている。
(引用ここまで)
何ともすごい話ですが、この様な職業(生き方)が日本に存在していたことに驚かされます。今ではほとんど忘れ去られてしまった書籍ですが、国立国会図書館デジタルコレクションで読めますので、一読をお薦めします。
と同時にこの「ヨナゲ屋」という言葉もいずれ忘れ去られてしまうのでしょうか? 東京の「代書屋」は「ヨナギ屋」ではなく是非「ヨナゲ屋」で統一していただきたいものです。
米朝のロングバージョンももちろん素晴らしいですが、御覧いただきたいのが三代桂春團治の映像です。途中、代書屋の「あんたなぁ ちょっとアホと違う?」この台詞とその時の三代目の顔が実に良いんです。ぜひともDVDで視聴して下さい。
手書きの履歴書 日本法令HPより |
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